10月12日現代資本主義システム論『白神山地とエコツーリズム』について

 

 

0 始めに

 

 今回は、ユネスコ世界遺産に登録されている白神山地が取り上げられました。白神山地の様子、地元の産業状態など様々な要素が複合されている議題でしたが、ここではエコツーリズムに限定して議論を展開していこうと思います。

 

 

1 今回のテーマにおける内容の再確認と補足・自己調査

 

a)エコツーリズムとはなにか。

 

エコツーリズムとは、 環境や社会的なものまで含めての生態系の維持と保護を意識したツーリズム(旅行、リクリエーション)のことである。

単に自然の中で野生動物と接し、珍しい動植物の生態に触れたり、アウトドア活動を楽しむことではない。また、単に自然保護の活動のために、余暇を削ってボランティアで汗を流しに出かけていくことではない。 自然の生態系や歴史的文化的な遺産の保護と保全という活動に、観光という余暇活動が加わり、さらに欲を言えば、それにその環境を維持している地域への還元があって初めて完全なものになるというものである。単なる観光でも、ボランティアでもない。

自然の生態系や歴史的、文化的な背景をもつ地域、環境に出かけ、それを楽しむと共にそれを保全、維持してきた人たちへの感謝も忘れないこと、それがエコツーリズムの精神である。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

これらをまとめたのが、次である。

 

@自然・歴史・文化など地域固有の資源を生かした観光を成立させること。

A観光によってそれらの資源が損なわれることがないよう、適切な管理に基づく保護・保全をはかること。

B地域資源の健全な存続による地域経済への波及効果が実現することをねらいとする、資源の保護+観光業の成立+地域振興の融合をめざす観光の考え方である。それにより、旅行者に魅力的な地域資源とのふれあいの機会が永続的に提供され、地域の暮らしが安定し、資源が守られていくことを目的とする。

 

(日本エコツーリズム協会)

 

 

実際には、官民の各機関でこの概念は若干異なってくるようだが、特に、@の考えが重要であり、共通に扱われているようだ。

 

b)実践例

 

@エコツアー

 

 エコツーリズムに基づく旅行の形態をエコツアーという。発表者に取り上げられていたのは、豊かな自然の中で生態系への理解を目的とし、温泉や料理などがメインではない企画である。しかし、宿泊施設やその他観光施設、最低限のインフラ整備は不可欠である。

 

A農家に泊まって、田舎生活を体験する。

 

 これは、昔から私がよく聞いてきたものだが、数日間、自然が残る田舎の農家に泊まり、農作業や自然とのふれあいを体験すると言うもの。宿泊施設など、新規のインフラ整備の必要がない。

 

Bボランティアツアー

 

 東京では有名らしいが、有名どころの自然観光スポットでのゴミ拾いなど自然回復活動を行うもの。例えば、富士山のゴミ拾いなどはこの早稲田でも募集されている。民間のNPOなどが企画する。

 

c)白神山地以外での実態

 

@知床半島

 

北海道東端部の知床半島は、本年2005年の7月に、ユネスコ世界遺産に登録された。自噴する温泉には、以前から多くの観光客が訪れていた。針葉樹・広葉樹の原生林、希少な野生動物など原始的な自然景観が広がるが、岬周辺では立入が禁止されている。

 

A屋久島

 

 亜熱帯の自然が生い茂る屋久島は、1993年に世界遺産に登録されて以降、急激に観光客が急増し、自然破壊が懸念されている。屋久島自然の中で最も有名なものは縄文杉である。樹齢7000年超と言われているが、内部の腐食により、現在、倒壊の危機に瀕している。また、今年の5月には、樹皮が人為的に剥ぎ取られると言う事件が発生した。

 

 

 

2 エコツーリズムから考える自然と人間

 

 1のa)でも述べたが、エコツーリズムでは、自然・歴史・文化など地域固有の資源を生かした観光を目指している。自然というのは、天然のまま人為の加えられていない状態のことを指し、本来、人間活動である観光と相容れない概念のはずである。具体的に言うと、自然の中に観光客を呼び込むことで、ゴミが発生し道路が整備され、本来不要であった維持費が必要となる。そして、その維持費捻出や観光産業の利潤のため、更なる観光客の増加が求められるようになるだろう。つまり、自然と観光を両立させることは不可能であり、自然を保護していくということを追い求めれば、エコツーリズムに基づいた観光であっても、普通の観光よりはましだろうが、許されないはずである。すなわち、エコツーリズムとは所詮、自然を保全するという美名を振りかざしつつも、観光を優先している概念にしか過ぎないのだ。

 ユネスコ世界遺産の自然遺産に登録されることは、そもそも、登録された自然の保護・保全を目的としているはずである。しかし、1で、白神山地・屋久島の例を見ても分かるように、日本では、世界遺産に登録されたことが観光客の急増を招き、皮肉なことに環境の破壊を引き起こしているのである。白神山地の場合は、1980年代の林道計画の反対運動に端を発するが、富士山などの他の遺産登録運動を見ると、自然の現状維持というよりも観光客の増加を意識した地元観光産業の振興を期待しているという場合もある。これは、自然遺産を人間本位の産業活動に利用しようとするものであり、本来の目的から逸脱しており言語道断である。

 自然を究極的に重視してしまえば、我々人間は否定される。しかし、自然への配慮を全く無視してしまえば、人間の環境自体が破壊され、人類は滅びることになるであろう。つまり、人間の存在を認めるならば、完璧な状態にはなり得ないが、ある程度の妥協はしつつ、人間本位ではなく自然の立場をよく意識して、その二つをうまい具合に両立させていかなければならない。だが、たとえ人間中心主義を排除して自然を尊重しようとしても、その場で扱われる“自然”の枠組みは、所詮、人間が想像力で作り上げたものに過ぎず、なにより、議論する主体が人間である限り、虚構上の議論から脱し得ないのではないだろうか。

 

 

【参考文献】

 

伊藤徹『柳宗悦 手としての人間』