2006.1.10.(TUE)

Aiichiro Kohno

〜1月10日 ナチスの全体像を探る試み〜

 『ナチスによる“国家神話”』

 

 

1 はじめに

 

資料『国家神話』は、スウェーデン人哲学者カッシラーがドイツ軍侵略の戦火ヨーロッパ全土に拡大していた1941年に渡米した後、ドイツ国家社会主義の誕生と台頭を政治神話に例えて記したベストセラーである。この中で筆者は、ナチスが言語機能の変化によって人間自体を変えその行動を支配するという神話をあげている。このような神話は現代においても存在するのであろうか?

 

2 資料文の概要

 

 筆者は資料文中で、「新しい政治神話」とはどういうものなのか、その意味や特徴、効果などを明らかにしている。こうした点及び前項で整理してきた内容を念頭に置き、以下にまとめた。

 

@「新しい政治神話」とは?

・ドイツ国家社会主義の完遂に向け、ドイツ国民の精神的再武装を目的として、ナチ政権により捏造された、人間の感情・思考の操作による意識と行動の支配の方法である。

        「言語機能の変化」「新しい儀式」から構成される。

 

A「言語機能の変化」について

言語機能には意味論的用途と魔術的用途があり、後者は主に原始社会において自然の必然的進路を変えるために用いられたが、この効果を意図的に現代に再現させたのがナチスによる「言語磯能の変化」である。

従来意味論的に使われていた単語に単純且つ巧妙に手を入れることによって、人間の激しい感情を伝え、政治的情熱を煽動する効果を持つ魔術的言語へと変化させた。

 

B「新しい儀式」

ドイツ国家社会主義のような全体主義国家成立のためには、国民に一定の政治的行動を課し、政治生活の支配を受けない個人的分野が存在しないような状態を作り上げることが必要である。

「新しい儀式」とは、そのために国家が規定する、政治行動関連の一定のふるまい方である。その儀式を一つでも怠ると、誰もが国家とその指導者の威厳に違反する犯罪行為者と見なされる。こうした遵守規定を伴う同一儀式を単調に繰り返させられた人間は、能動的能力、主体的判断力、批判的洞察力を失いそうした人間により構成される社会に存在するのは集団責任だけとなる。こうして「新しい儀式」は魔術的言語の効果を補完・増幅していくのである。

 

<詳細>

 

第1段落‥「新しい政治神話」とは何か、その概要・特性について

 

・新しい政治神話は、

→腕の立つ職人によって捏造される人造工物である。

→他の現代兵器製造と同じ感覚で、同じ方法に基づき製造することが可能。

→現代の社会生活の全形態を変えてしまっている。

 

・(1933年頃に顕在化したドイツの)軍事面での再軍備は、政治神話がもたらした精神再武装の必然的帰結にしかすぎなかった。

 

第2段落〜第5段落‥「新しい政治神話」捏造の第一歩である「言語機能の変化」について

 

▽言語の機能について

・言葉には、意味論的用法と魔術的用法という二つの機能がある。

 

▽言語の魔術的用法の特性について

・原始社会では魔術的用法の方が圧倒的な影響力を持つ。

・魔術的言葉は、

→事物や事物の関係を述べるものではない。

→ある種の効力を生み出し、それによって自然の必然的な進路を変えようとするもの。

→魔法使いの手にかかると強力な武器になり、それに抗することができるものはない。

 

▽現代における魔術的言葉の検証

・現代の政治神話(ドイツ国家社会主義)の中では、倫理的価値体系が倒錯しているばかりか、人間の言語が変化してしまっている。

→新しい単語も作られているが、古い単語が新しい意味で使われている。

→叙述的、論理的、意味論的な意味で使用されていた単語が、感情や激しい情熱を引き起こし伝える魔術的言葉として使用されている。

・事例

→「ナチ・ドイツ/ドイツ語現代語法小辞典」からSiegfriedeSiegerfriedeを引用し検証

・検証結果

→激しい政治的情熱の煽動という目的を、一つの語のわずか二者節を変えるだけで達成。

→そうした新しい単語を耳にすれば、その中にあらゆる人間的感情(嫌悪、怒り、憤激、傲慢、侮辱、横柄さ、尊大さ)を感じ取る。

 

第6段落〜第10段落‥魔術語の効果を補填する「新しい儀式」について

▽儀式の特性

・(原始社会での儀式と同様)規則的で、厳格で、冷酷。

・幼い子どもも含め国民全員が常に儀式の実践を課せられている。

→儀式を怠ることは、国家指導者と全体主義国家の威厳に違反した犯罪行為となる。

▽儀式の効果

・いつも同じ単調な振る舞い(儀式の実行)は、

→人間の能動的能力、判断力と批判的洞察力をすべて休眠状態にする。

→個人の感情と責任感を取り去る (原始社会にあるのは集団責任だけである)。

▽儀式の影響

・現代人の特性

20年前に書かれた、ハートランドの人類学研究に基づく知見の紹介

→未開人はルソーが想像したような自由な生き物ではなく、仲間の社会的慣習により四方八方から束縛されている。

→文明人も同様な状況におかれている場合もあるが、しかし文明人は落ち着きなく、変化願望や生活環境を疑う傾向が強いので、黙って従うという状況には長くいたたまれない。

・筆者の指摘

→現代人は落ち着きがないゆえに、未開生活の状態を克服していない。

→未開人が受けるのと同様な権力にさらされると、現代人は完全な黙従状態に簡単に陥る。

・検証=「新しい儀式」が人間に与えた影響

→教養と知性のある人間、実直で率直な人間が、人間の最高の特権を放棄し、個として自由な行為者であることを止めてしまった。

→国家が規定した同じ儀式を行うことで、感情、思考、話す内容も皆同じになり始めている。

→自分が、外的力=政治的指導者によって操られていることさえ知らない。

 

第11段落・・・まとめ

  「新しい政治神話」は、強制や抑圧といった従来の方法ではなく、人間の意識や感情を変えることにより、その行動を強制支配することを企てたのであり、これによって大きな抵抗もなく人間が政治神話の餌食になったのだ。

 

 

3 資料文

 

<和訳>

 神話は無意識の活動の成果、想像力の自由な産物だと言われてきた。しかし神話は計画に基づいて作られるものなのだ。新しい政治神話は自由に育つものではない。つまりあふれんばかりの想像力が生む非加工の産物ではない。新しい政治神話はずるいほど大へん腕の立つ職人に

よって捏造される人造物なのだ。神話を作る新しい技術の開発は、現代という偉大な技術時代である20世紀用に予約されてきたものなのだ。今後、神話は他のあらゆる現代兵器―例えば、機関銃や飛行機―を製造するのと同じ感覚で、さらに同じ方法に基づいて製造することが可能になる。これ(こうして作られたもの)は決定的に重大な新しいものであり、現代の社会生活の全形態をすでに変えてしまっている。各国の政府がドイツの再軍備と再軍備が国際社会に与えるかもしれない影響を若干ながら懸念しはじめたのは1933年のことだった。ところが実際、この再軍備は1933年より何年も前に始まっていたのだが、ほとんど気付かれることなく進んでいたのだ。政治神話が生まれ台頭した時に実際の再軍備は始まったのである。その後に起きる軍事面での再軍備などはアクセサリーにしかすぎなかった。つまり軍事面での再軍備は政治神話がもたらした精神再武装の必然的結果にしかすぎなかったのである。

 政治神話のために取られた第一歩は言語機能の変化であった。人間の言語の発達を調べると、文明の歴史において言葉は全く異なる二つの機能を果たしていることがわかる。簡単に言えば、この二つの機能を言葉の意味論的用法と魔術的用法と呼ぶことができよう。いわゆる原始言語においてさえも、言葉の意味論的用法は決して見当たらないものではない。それなくしては人間の言語は存在しえないからである。しかし原始社会では魔術的用法の方が圧倒的に影響力がある。魔術的言葉は事物や事物の関係を述べるものではない。効力を生み出し、それによって自然の必然的な進路を変えようとするものである。この狙いは精巧な魔法の技術がないと達成できない。魔法使いにしかこの魔術的言葉は使えないのだ。しかも魔法使いの手にかかると、この言葉はとてつもなく強力な武器になる。そしてこの言葉が生み出すカに抗することができるものは何もない。魔法の歌とまじないで、月さえも天から引きずり下ろすことができるのである。

 不思議なことに、魔術的言葉にまつわるこうした一切が我々の現代世界で再び起きているのである。現代の政治神話の中では現代の倫理的全価値体系が倒錯しているばかりか、人間の言語が変化してしまっていることがわかる。過去10年間に発行されたドイツ語の政治に関連する本ではなく理論関係の本、つまり哲学、歴史、あるいは経済問題をテーマにした本をたまたま私が読む機会があれば、私にはもはやドイツ語が理解できないだろう。新しい単語も作られたが、古い単語さえも変わって新しい意味で使われている。しかも意味が大きく変わってしまっているのだ。このように単語の意味が大きく変化した原因は叙述的、論理的、あるいは意味論的な意味で使用されていた単語が、ある種の感情を引き起こすことを運命づけられている魔術的言葉として使用されていることにある。我々の通常語は意味を伝えることを任せられているのだが、こうしたドイツ語は感情や激しい情熱を伝えることを任せられているのである。

 最近「ナチ・ドイツ/ドイツ語現代語法小辞典」という大変興味深い本が発行された。この本にはナチ政権によって産みだされた例の新用語がすべて載っている。何とも恐ろしいリストである。(ナチ政権による言語)全面破壊を生き延びた単語はごくわずかしかないように思える。

当小辞典の執筆者たちはこうした新しい用語の英訳を試みているが、英訳の面で彼らが成功を納めたとは私には思えない。彼らは本物の英訳ではなく、ドイツ語の語句を遠回しにしか翻訳できなかった。これらの単語は正確に英訳するのが不可能だったからである。こうした単語の

特色は内容や客観的意味というより単語を取り巻く感情面での雰囲気であるからその雰囲気が感じ取られなければならない。ところがこの雰囲気は翻訳も不可能だし、ある世論傾向の社会から全く別の世論傾向の社会へと移すこともできない。

 この点を証明するのに無作為で選んだ、これみよがしの実例を一つあげれば私としては満足である。この小辞典から知ったことだがドイツ語の最近の語法では、SiegfriedeSiegerfriedeという二つの単語には著しい違いがあると私は理解している。この二つの単語の発音は全く同じように聞こえる。また 同じことを意味しているように思える。Siegは勝利、Friedeは平和を意味する。この二つの単語を組み合わせても全く違う意味を生むことは不可能なはずである。にもかかわらず、ドイツ語の現代語法では、SiegfriedeSiegerfriedeには天と地ほどの違いがあると言われている。というのは、Siegfriedeはドイツの勝利を通じての平和であり、一方Siegerfriedeは全く反対の意味、つまり連合軍が征服者になった場合に押しつけられるであろう平和を意味するために使われているからである。他の用語の場合も同じである。こうした用語を造った人物は政治プロパガンダの技術面では巨匠であった。彼らは、激しい政治的情熱の扇動という目的をもっとも単純な手段を用いて達成したのである。この目的を実現するためには、一つの単語で、いや一語のわずか一音節を変えるだけで十分だった場合も多い。これらの新しい単語を耳にすれば、その中にあらゆる人間的感情、つまり嫌悪、怒り、憤激、傲慢、侮辱、横柄さ、尊大さを感じ取るのである。

 しかし、魔術語を巧みに使うことが全てではない。魔術語が十分に効果を発揮するためには、新しい儀式を導入して補助しなければならない。この点でも政治家の進め方は徹底的であり、戦略的であり、しかも大成功を納めたのであった。政治的行動というものはすべてが特別な

儀式を伴うものである。また、全体主義国家では、政治生活の支配を受けない個人的分野は存在しないので、人間の全生活が、満潮のように押し寄せる新しい儀式によって突然水浸しになるのである。この儀式は原始社会に見る儀式と同じように、規則的で、厳格で、冷酷である。

国民全員が路上を歩くときも、隣人や友だちに挨拶するときも、何らかの政治儀式を実践しなければならない。まさしく原始社会でそうであるように、国家が規定している儀式を一つでも怠ることは悲惨な出来事や死が起こることを意味している。幼い子どもの場合でも、儀式を怠

ることは単なる怠慢罪とはみなされず、国家指導者と全体主義国家の威厳に違反した犯罪行為になってしまうのである。

 こうした新しい儀式の効果は一目瞭然である。同じ儀式をいつも同じように単調に実行することほど我々の能動的能力、判断力と批判的洞察力をすべて休眠状態にしてしまい、我々個人の感情と責任感を取り去ってしまう可能性の大きいものはない。実際、儀式に統治支配されて

いる原始社会ではどこでも、個人的責任というものの存在は誰も知らない。原始社会にあるのは集団責任だけである。素行分野では個人ではなく、集団で服従しなければならないのである。一族、一家、そして部族全体が個々の構成メンバー全員の行動に資任を負っているのだ。も

し犯罪がおきても、個人の責任にはならない。誰もその影響をのがれることはできない。復讐と処罰もまた、つねに集団全体に向けられる。

流血の抗争が最高の義務の一つである社会では、殺人者本人に復著する必要は全くない。殺人者の一家やその人物が所属する部族の誰か一人殺せばそれで十分なのである。殺されるのは加害者本人ではなく一番上の兄である場合もある。

 この200年、未開生活の特色に関する我々の概念は完全に変わった。18世紀、ルソーは未開生活と自然の状態を描写した物語を発表した。彼はその中で質素、無邪気そして幸福な本当のパラダイスの姿を描いた。未開人が本能のおもむくままに、そして質素な欲望を満たしな

がら、人の手の入っていない新鮮な森林で一人暮らす様子、また、最高の利益、つまり絶対的独立という利益を享受する姿である。不幸なことに、19世紀に人類学の研究が進み、ルソーのこの哲学的牧歌は完全に破壊された。ルソーの措いたものと正反対のものになってしまった

のである。E・シドニー・ハートランドは著作『原始法』の中で次のように述べている。

 「未開人はけっしてルソーの想像したような自由で何にも束縛されない生き物ではない。それどころか、仲間の社会的習慣によって四方八方から閉じ込められている。こうした束縛を未開人は当然のこととして受け入れている。文明人の場合にも同じような状況が観察されうる場

合が多い。しかし、文明人は落ち着きがなく、変化願望が強く、しきりと自分の生活環境を疑う傾向が強いので、黙って従うなどという状況には長く居たたまれないのである」

 20年前に書かれたものである。しかしこの20年の間に我々は一つの教訓、我々人間のプライドにとってとても屈辱的な教訓を学んだ。現代人は落ち着きがないのにもかかわらず―正確にいえば、落ち着きがないゆえに1実は未開生活の状態を克服していないということである。

未閑人が受けるのと同じような権力にさらされると、現代人は完全な黙従状態にいとも簡単に投げ戻されてしまうのである。もはや自分をとりまくものを疑ってみることもしない。それを当然のこととして受け入れるのである。

 この一二年間に様々な悲しい体験をしてきたが、その中でこれほど恐ろしい体験はおそらくなかっただろう。この体験はキルケ島でオデュッセウスが体験したものに匹敵するといってもよかろう。いや、もっとはるかにひどい体験である。キルケはオデュッセウスの友人や仲間を様々な動物の姿に変えてしまった。しかし今回の場合は、教育と知性のある人間、実直で率直な人間が、人間の最高の特権を突然放棄したのである。彼らは個として自由な行為者であることを止めてしまったのだ。国家が規定した同じ儀式を行うことで、感情、思考、話す内容もみな同じになり始めているのだ。彼らの動作は元気があって激しい。しかしこれは作為的な、いかさまの動きにしかすぎない。彼らは外的な力によって動かされているのだ。彼らの振る舞いは人形劇のマリオネットのようである。しかも彼らは自分が出演しているこの操り人形劇の操り糸が、つまり人間の個人的社会生活の繰り糸が、今後は政治的指導者によって引っ張られることさえも知らない。

 我々が直面している問題を理解するためには、これは決定的に重要な点である。強制とか抑庄とかいった方法が今まで政治生活では使われてきた。しかし大抵の場合、こういった方法は物質的成果を狙ったものだった。専制政治という最も恐ろしい制度でさえも、人間に行動を制約する一定の法を押しっけることで満足していた。人間の感情、判断そして思考の分野にまでは足を踏み入れなかったのだ。宗教の世界では人間の行為ばかりか意識も支配しようとして最大限の激しい努力が払われたことがあったのは確かだ。しかし、こうした試みは必ず失敗に終わった。その結果、宗教的自由を求める気持ちを強めただけだったからだ。ところが今回の現代政治神話は従来とは全く違った方法で進行した。ある特定の行動を要求することや禁ずることから着手せず、人間を変え、彼らの行動を規制支配することができるよう企てたのだ。政治補語の行動は、獲物を麻痺させてから攻撃しようとするヘビのやり方と同じだ。何ら大きな抵抗をすることもなく、人間が政治神話のエジキとなった。彼らは征服、鎮圧されたその後で何が現実で起こったのかに気がついたのである。

 

<原書>

Myth has always been described as the result of an unconscious activity and as a free product of imagination. But myth is made according to plan. The new political myths do not grow up freely; they are not wild fruits of an exuberant imagination. They are artificial things fabricated by very skillful and cunning artisans. It has been reserved for the twentieth century, our own great technical age, to develop a new technique of myth. Henceforth myths can be manufactured in the same sense and according to the same methods as any other modern weapon as machine guns or airplanes. That is a new thing and a thing of crucial importance. It has changed the whole form of our social life. It was in 1933 that the political world began to worry some what about Germany's rearmament and its possible international repercussions. As a matter of fact this rearmament had begun many years before but had passed almost unnoticed. The real rearmament began with the origin and rise of the political myths. The later military rearmament was only an accessory; the military rearmament was only the necessary consequence of the mental rearmament brought about by the political myths.

 The first step that had to be taken to create the political myths was a change in the function of language. If we study the development of human speech we find that in the history of civilization the word fulals two entirely different functions. To but it briefly we may term these functions the semantic and the magical use of the word. Even among the so-called primitive languages the semantic function of the word is never missing I without it there could be no human speech. But in primitive societies the magic word has a predominant and overwhelming influence. It does not describe things or relations of things; it tries to produce effects and to change the course of nature. This cannot be done without an elaborate magical art the magician alone is able to govern the magic word. But in his hands it becomes a most powerful weapon. Nothing can resist its force. By magic songs and incantations even the moon can be dragged down from the heavens.

 Curiously enough au this recurs in our modern world. If we study our modern political myths and the use that has been made of them we find in them, to our great surprise, not only a transvaluation of all our ethical values but also a transformation of human speech. The magic word takes precedence of the semantic word. If nowadays I happen to read a German book, published in these last ten years, not a political but a theoretical book, a work dealing with philosophical, historical or economic problems ― I find to my amazement that I no longer understand the German language. New words have been coined; and even the old ones are used in a new senses they have undergone a deep change of meaning. This change of meaning is caused by the fact that those words which formerly were used in a descriptive, logical or semantic sense, are now used as magic words that are destined to stir up certain emotions. Our ordinary words are charged with meanings but these German words are charged with feelings and I violent passions.

 Not long ago there was published a very interesting book, Nail-Deutsch. A Glossary of Contemporary German Usage. In this book all those new terms which were produced by the Nazi regime were listed, and it is a tremendous list. There seem to be only a few words which have survived the general destruction. The authors made an attempt to translate the new terms into English, but in this regard they were, to my mind, unsuccessful. They were able to give only circumlocutions of the German words and phrases instead of real translations. For it was impossible to render these words adequately in English. What characterizes them is not so much their content and their objective meaning as the emotional atmosphere which surrounds and envelops then. This atmosphere must be felt; it cannot be translated nor can it be transferred from one climate of opinion to an entirely different one. To illustrate this point I content myself with one striking example chosen at random. I understand from the Glossary that in recent German usage there is a sharp difference between the two terms Siegfriede and Siegerfriede. Even for a German ear it will not be easy to grasp this difference. The two words sound exactly alike, and seem to denote the same thing. Sieg means victory, Friede means peace; how can the combination of the two words produce entirely different meanings? Nevertheless we are told that in modern German usage, there is all the difference in the world between the two terms. For a Siegfriede is a peace through German victory; whereas a Siegerfriede means the very opposites it is used to denote a peace which would be dictated by the allied conquerors. It is the same with other terms. The men who coined these terms were masters of their art of political propaganda. They attained their end, the stirring up of violent political passions, by the simplest means. A word, or even the change of a syllable in a word, was often good enough to serve this purpose. If we hear these new words we feel in them the whole gamut of human emotions ― of hatred, anger, fury, haughtiness, contempt arrogance, and disdain.

 But the skillful use of the magic word is not all. H the word is to have its full effect it has to be supplemented by the introduction of new rites. In this respect, too, the political leaders proceeded very thoroughly, methodically, and successfully. Every political action has its special ritual. And since, in the totalitarian state, there is no private sphere, independent of political life, the whole life of man is suddenly inundated by a high tide of new rituals. They are as regular, as rigorous and inexorable as those rituals that we find in primitive societies. No one could walk in the street; nobody could greet his neighbor or friend without performing a political ritual. And just as in primitive societies the neglect of one of the prescribed rites has meant misery and death. Even in young children this is not regarded as a mere sin of omission. It becomes a crime against the majesty of the leader and the totalitarian state.

 The effect of these new rites is obvious. Nothing is more likely to lull asleep all our active forces, our power of judgment and critical discernment and ― to take away our feeling of personality and individual responsibility than the steady, uniform, and monotonous performance of the same rites. As a matter of fact in all primitive societies ruled and governed by rites individual responsibility is an unknown thing. What we find here is only a collective responsibility. Not the individuals but the group is the real moral subject. The clan, the family, and the whole tribe are responsible for the actions of all the members. If a crime is committed it is not imputed to an individual. Nobody can escape the infection. Revenge and punishment too are always directed to the group as a whole. In those societies in which the blood feud is one of the highest obligations it is by no means necessary to take revenge upon the murderer himself. It is enough to kill a member of his family of his tribe. In some cases, it is the eldest brother rather than the murdered himself who is killed.

In the last two hundred years our conceptions of the character of savage life have completely changed. In the eighteenth century Rousseau gave his full description of savage life and the state of nature. He saw in it a real paradise of simplicity, innocence, and happiness. The savage lived alone in the freshness of his native forest, following his instincts and satisfying his simple desires. He enjoyed the highest good, the good of absolute independence. Unfortunately the progress of anthropological research made during the nineteenth century has completely destroyed this philosophical idyll. Rousseau’s description was turned into its very opposite. "The savage," says E. Sidney Hartland in his book, Primitive Law, "is far from being the free and unfettered creature of Rousseau’s imagination. On the contrary, he is hemmed in on every side by the customs of his peoples he is bound in the chains of immemorial tradition... These fetters are accepted by him as a matter of course; he never seeks to break forth... To the civilized man the same observations may very often apply; but the civilized man is too restless, too desirous of change, too eager to question his environment, to remain long in the attitude of acquiescence."

These words were written twenty years ago; but in the meantime we have learned a new lesson, a lesson that is very humiliating to our human pride. We have learned that modern man, in spite of his restlessness, and perhaps precisely because of his restlessness, has not really surmounted the condition of savage life. When exposed to the same forces, he can easily be thrown back to a state of complete acquiescence. He no longer questions his environment: he accepts it as a matter of course.

 Of all the sad experiences of these last twelve years this is perhaps the most dreadful one. It may be compared to the experience of Odysseus on the island of Circe. But it is even worse. Circe had transformed the friends and companions of Odysseus into various animal shapes. But here are men, men of education and intelligence, honest and upright men who suddenly give up the highest human privilege. They have ceased to be free and personal agents. Performing the same prescribed rites they begin to feel, to think, and to speak in the same way. Their gestures are lively and violent; yet this is but an artificial a Shame life. In fact they are moved by an external force. They act like marionettes in a puppet show ― and they do not even know that the strings of this show and of man’s whole individual and social life are henceforward pulled by the political leaders.

 For the understanding of our problem this is a point of crucial importance. Methods of compulsion and suppression have ever been used in political life. But in most cases these methods aimed at material results. Even the most fearful systems of despotism contented themselves with forcing upon men certain laws of action. They were not concerned with the feelings, judgments, and thoughts of men. It is true that in the religious field the most violent efforts were made not only to rule the actions of men but also their consciousness. But these attempts were bound to fail; they only strengthened the feeling for religious liberty. Now the modern political myths proceeded in quite a different manner. They did not begin with demanding or prohibiting certain actions. They undertook to change the men, in order to be able to regulate and control their deeds. The political myths acted in the same way as a serpent that tries to paralyze its victims before attacking them. Men fell victims to them without any serious resistance. They were vanquished and subdued before they had realized what actually happened.

 

【参考文献】

The myth of the state / by Ernst Cassirer. London : Oxford University Press, 1946

国家 : その神話 / エルンスト・カッシラー [] ; 河原宏 [ほか]共訳  理想社, 1957.12

『社会学の基礎概念』 / マックス・ウェーバー

ナチ・ドイツと言語―ヒトラー演説から民衆の悪夢まで / 宮田 光雄 岩波新書 新赤版

 

4 その他の資料

 

野村一夫国学院大学経済学部教授の論

 

強制指導型コミュニケーション

 

 これは「言語やコミュニケーションの内容を規定しようとする政府の政策から生まれてくる」コミュニケーションのことである。全体主義的社会によくみられる形であり、ナチス・ドイツや戦後の東欧の社会主義諸国などでよく観察された。

 

 たとえば、ナチスは政権をとった直後の一九三三年、高校生にファシズムのイデオロギーやナチスの歴史的任務についてのコースの履修を義務づけるとともに、いっさいのマス・メディアを宣伝省の統制下においた。そのさい、ナチスのねらいは、さまざまのできごとについて政府と同じ評価を人びとにさせることだった。そのために、たんにイデオロギーを学習させるにとどまらず、ひとつひとつのことばの使い方まで統制しようとした。その結果、学術論文や国語事典・百科事典までも政府によって改訂され、ことばの再定義と新たな造語がなされた。たとえば「労働奉仕」について、以前は「強制労働の項を参照せよ」とあったのが「ナチス民族共同体のための偉大な教育制度」と書き改められた。また「創造力」という語義をつけられていた「知性」の項は「本能とは区別された批判的で反逆的・破壊的な特性を指す言葉」に変更された。さらに「憎しみ」の項は「憎しみも正義の側について言われる場合には肯定的な意味を持つ」と説明され、「北方人種の英雄的な憎しみは、ユダヤ人の臆病な憎しみと鋭く対立する」といった露骨な例文が添えられるにいたっている(※)

 

 このように、ナチスはことばそのものの再定義を徹底してやった。また新造語も多い。ナチス・ドイツの場合、これが12年間も維持され、それが悲惨な結果を正当化するのに貢献することになる。そして、これとまったく同じことが戦後の社会主義諸国でも再演されつづけた。スターリンもまた、言語を変革闘争の武器と考えていたからである▼。

 

      ミシェル・フーコー、渡辺守章訳『性の歴史I知への意志』(新潮社一九八六年)121124ページ。