5月18日現代資本主義システム「北九州市の再活性化」について

 

 

0) 発表内容の再確認

 

[主題] 北九州市の再活性化

[現状] 主軸産業の重化学工業が衰退し、影響で周辺産業も衰退。人口減少。

[原因] エネルギー革命や円高によって、日本の重化学工業の国際競争力の減退。

[対策] 

  ◎「北九州ルネッサンス構想」などにより

@   産学共同研究都市の建設

A   響灘の整備

B   空港・高速道路などインフラの再整備

[展望] 観光客の順調な増加や人口の下げ止まりも見られるなど、今後の発展も十分期待できる。

 

 

1) 追加調査

 発表内容にもあったように、北九州市は、重化学工業を中心とする工業で栄えたが、現在、その地盤沈下が著しいとされる。そこで、北九州市とその周辺域について、主力の工業の観点から、また地元の人間として、この過程やこの先の展望を論じてみようと思う。

 

a)北九州工業地帯の定義

北九州市を中心に関門海峡や洞海湾、周防灘一帯に広がる工業地帯四大工業地帯の一つとされる。

 

b)北九州工業地帯の立地要因

 明治時代、日清戦争の賠償金で、八幡(現・北九州市八幡東区)に官営八幡製鉄所が建設された。これを起点に北九州工業地帯が拡大していくのだが、当時の八幡は単なる農村に過ぎなかった。このような場所を国運の賭ける工場の建設地にした理由として、以下の3つの地理学上の立地要因があったと考える。

まず、北九州から南に入った内陸地である筑豊は江戸時代(明和年間[1764年〜1771]から石炭の産出地として有名であり、その石炭を製鉄に利用しようとする原料立地的要因が第一である。第二には、もともと遠賀川などの河川交通によって筑豊炭田からの石炭が運びやすかったことに加え、洞海湾を始めとして門司港や小倉港などの良港が建設しうる沿岸環境であったり、この地域が道路・鉄道の交通の結節点であったという交通立地的要因がある。さらに第三として、当時の日本にとっては、九州に近い朝鮮や中国は政治的重要地域であり、その対外目標の工業的拠点として北九州を位置づけたという大地理的上の要因もあった。

 

c)日本産業の変遷と北九州工業地帯の発展・衰退の過程

このような立地条件で建設された北九州工業地帯は、第2次世界大戦までに日本有数の大工業地帯に発展し、戦中での空爆による被害を受けるも、戦後復興期の中で更なる発展を見せる。政府は、必要な資源を確保した上で生産を拡大していく傾斜生産方式をとる中で、石炭・鉄鋼・繊維を主導業種として優先し、そのうち前の2つを主力とする北九州工業地帯は重化学工業(素材型工業)地として強力に復興政策が進められ、また朝鮮戦争勃発による特需景気も回復を助けた。この間、筑豊産の石炭だけでは足りなくなり、中国からの石炭も輸入するようになったが、これは中国が北九州から比較的近かったからであって、依然として北九州工業地帯の原料立地性が失われたわけではなかった。そして、高度経済成長期前期の1963年には、北九州の工業都市の若松市・戸畑市・八幡市・小倉市・門司市の5市が合併して北九州市(当時の人口は102万人であり、福岡県の県庁所在地の福岡市の72万人よりも多い)が誕生し、全国で3番目の政令指定都市となった。

ところがこの頃より、このような重化学産業と石炭原料に偏った集中を見せたことが北九州工業地帯にとって災いとなる。1965年から始まるとする高度成長の後期には、鉄鋼などの素材型工業ではなく電機・自動車などの組立型工業が先導業種となり、北九州工業地帯は、生産するための工業地帯から他の工業地帯へ資材を供給するための工業地帯となってしまった。また、60年代から70年代初旬において、石炭の輸入先である中国では文化大革命が発生し大陸との交易が途絶えたことで北九州の地理的優位性は弱まり、同時期に進行した国内のエネルギー革命の中で、国の重点エネルギー源が石炭から石油へとシフトし、石炭を主要エネルギーとする北九州工業地帯の工業生産は停滞してしまったのである。それに加え、京浜・阪神・中京とは異なり、人口の集中により形成された大消費地から遠く、背後に広大な後背地を持たないため新たな用地が新産業の進出を妨げられたということも、衰退要因の一部であろう。その後、1969年の全国総合開発計画(新全総)の中で浮上を試みるも、大気汚染を中心とする公害に対する反対運動や石油危機による国内不況の中で頓挫し、その後も有効策を打ち出せないまま、衰退傾向に歯止めがかからず、平成を迎えることとなる。

 

d)北九州工業地帯の展望

 上で述べたように、かつての主力であった重化学工業は、その後のアジアNIESや中国の躍進もあって壊滅的状態だが、依然見られなかった他業種の発展が最近になって見られる。例えば、電気機械が平成に入ってから2000年頃までに40%程の成長を見せ、IC産業でも福岡県の多くの工場が北九州に集中するようになった。この背景には、「北九州ルネッサンス構想」による工業技術の向上策が影響していると考えられる。

そして、それ以上の拡大を見せているのが、石油危機後の慢性的な国内工業の不況においても知識集約型産業として低燃費の小型車を売りに国際競争力を維持・向上させている自動車産業である。1975年には周防灘沿岸に日産自動車の工場があったが、1994年にトヨタ自動車が進出してから、北九州工業地帯の主力が自動車となっている。ダイハツも加えこれらの自動車産業は増産体制を強めていることから、2006年の自動車生産量はロシア一国に匹敵する規模の100万台に到達する見込みである。現在、これらの車は国内向けあるいは欧米に輸出されるものが多いが、経済発展と国民所得の向上が見込まれる韓国・中国・東南アジアに対する、北九州の地理的優位性を利用した輸出の更なる増加が考えられ、また、かつての重化学工業の跡地の転用により用地も確保できることにより、新工業の成長も見込まれる。よって、「衰退した北九州工業地帯」の評価がこの数年のうちに変化する可能性は大きいものと期待できる。

 

☆北九州工業地帯の主な自動車工場情報は、

「カーゾン関門北九州圏」http://gazone.morrie.biz/keizai/kkt.htmlをご参考下さい。

 

2) 余録

 

1.北九州学術研究都市

 

この研究所のある北九州市若松区は海運会社が多く、最近、マラッカ海峡で海賊に襲われた近藤海事の本部もある。そして、何より、私の祖父母の住んでいる街である。

 

2.暮らし

 

 ゼミの中で提示されたアンケートの中で、北九州市の保健福祉の充実の満足度が他の項目よりも低かったが、これは北九州市の高齢者率が比較的高いためであり、設備の充実が高齢化に追いついていないためである。なお、個人的な感触でいえば、物価・交通・環境などの面は、東京などと愕然の差があり極めて暮らしやすい街であると考えられる。